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写真と言語と文化。

認知言語学、文化記号論をベースにした写真論を。たまにskateboardのことも。

≪キドニー型プール≫で滑りだしたスケートボードは何を手に入れたのか

【前回まとめ】

スケートボードは前期カリフォルニア文化を象徴する「有機的パターン」をもつキドニー型プールで滑りだした。その特徴的なデザインは1950年代には「重力からの解放」を表すデザインへと応用されていた。

そして1960年代、前期カリフォルニア文化は終焉を告げる。

スケートボードを衰退から救った≪キドニー型プール≫誕生の話。 - 写真と言語と文化。

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(世界初のキドニー型プール。雑誌『House Beautiful』表紙)

 

戦後モノのない時代に、楽園のような温暖な気候のもと、優れたデザインで生活を彩り成長を続けたカリフォルニア。その地で生まれた文化は1966年にひとつの映画を象徴として最初の幕を下ろした。その映画とは『エンドレス・サマー』であり、「終わらない夏」を求める二人の若いサーファーが「水平線の向こうで生まれつつあるかもしれないあのパーフェクトな波」を夢見る姿を描いた群像劇だ。楽園のようなカリフォルニアには「終わらない夏」があり、成長を続ける文化は「パーフェクトな波」を思わせるのに十分すぎるほど映画的な世界だった。

 

スケートボードは前期カリフォルニア文化が終焉を告げる前年の1965年、LIFE Magazineを皮切りに初めて世界の表舞台に躍り出た。「終わらない夏」を海に求める旅が終焉することを予見していたかのように、サーフィンの練習用として生まれたスケートボードは「終わらない夏」を海ではなく陸に求めていたのである。

 

スケートボードが元々サーフィンの練習用として生まれたのは有名な話だ。当時の滑り方にはいくつか種類があり、フリースタイルと呼ばれる逆立ちなどの曲芸的な滑り方、パイロンの間をジグザグに滑りタイムを競うなどの遊び方があった。それとは別にサーフィンの延長で滑っていたスケーターもおり、彼らが「どのような場所」で滑っていたかというと、バンク(斜度のついた路面)と呼ばれる場所などであった。このバンクはサーフィンの波乗りの感覚に似ていた。バンクの頂上付近でキックターン(急な方向転換)やパワースライド(車でいうドリフトのような動き)をし、その動きにサーフィンのカットバックの感覚を求めていたのである。

 

そのサーフィンの感覚を求める欲求は、ついに本物以上とも呼べる新たな場所と感覚を見つけた。それは本来水があるはずのプールであり、前期カリフォルニア文化を代表するキドニー型プールだ。まだサーフィンの感覚を求めていた時期だからこそ水を求めプールに行き、Rに波を感じることができたのだが、そこで新たな感覚も同時に見つけたのだ。スケートボードは前期カリフォルニア文化の象徴であるキドニー型プールで滑ることで新時代の幕開けを宣言し、一度忘れられかけたその姿を再び世界に見せつけた。第二次スケートブームの到来だ。

 

重力からの解放

ブームというからには、キドニー型プールが少数で特定の場所にのみ存在するという特別な状況ではなく、当たり前のように滑れる場所がたくさん存在しなくてはならない。それにはふたつ条件がいる。まず、どこに行ってもキドニー型プールがたくさんあること。キドニー型プールは前期カリフォルニア文化を象徴するほど西海岸を中心にたくさん作られたので問題ない。もうひとつは、プールで滑ってもよいという許可を得ることだ。プールは一つ一つ微妙に形状が違う(Rの斜度、深さなど)ので、自分の家のプールだけではなく様々なプールで滑りたいという欲求があった。その欲求を満たすため他人の家に行き、「プールの水を抜いて滑らせてくれ」といって許可してくれる人はもちろんいなかった。

 

最終的にふたつの条件が揃いブームを完成させた出来事は1970年代カリフォルニアを襲った水不足だ。景気悪化も重なり水は高価なものになり、そう簡単にはプールに水を張れなくなった。それだけでなく家を手放す家庭も相当数あり、空き家が多いエリアは治安が悪化しさらにひとが寄り付かなくなる、という悪循環を繰り返した。治安の悪いエリアに空き家となったキドニー型プールが増えたのだ。

(ここで少し細かいことを書く。初めてプールでスケートボードをした時期は1963年から65年の間であることが、ロンドン大学イアン・ボーデ教授の著書【スケートボーディング、空間、都市ー空間と都市】にて確認されている。このときはまだブームとは呼べなかった。

第二次スケートブームの火付け役となったドッグ・タウンがプールで滑りだしたのも1970年代。場所は偶然にもビートやヒッピーのカウンターカルチャーを育てたヴェニス・ビーチである。彼らが登場するにはいろいろな条件が揃わなければならなかった。こうして「終わらない夏」を海ではなく、プールに見つけるスケーターが増えていった。

 

カリフォルニア文化を育んだ「温暖で開放的な風土」と「重力からの解放」のふたつを象徴する有機的パターンを持ったキドニー型プールが誕生してから20年以上が経っていた。プールで滑り出したスケートボードは、そのプールが大量につくられた当時流行していた「重力からの解放」を受け継ぎ、地面から解放されていく。「エアー」(オーリーとも呼ばれるトリック。ジャンプすること)の誕生だ。カリフォルニア文化が花開いた時代にたくさんの人が想像の中でしか味わえなかった「無重力」を、スケートボードは文字通り体現してみせた。何より重要なのがこの「R」こそスケーターにとって「命」であり、「重力からの解放」を夢見ていた時代につくられたものが「実際に重力から開放したただ一つの革命ともいえる事実」、それが「エアー」なのだ。今まで「地面を滑る」だけであったスケートボードが、プールの斜面であるRを駆け上がりそのままリップ(プールの縁)を超えて空を飛ぶようになった。これは革命的な進歩だった。エアーはトリック的に見ればすべての基礎といえるものであり、これがなければその後の発展は一切なかったといえるほどだ。

 

キドニー型プールで重力からの解放を受け継ぎエアーを誕生させたことは、何ものにも捉われず自由な発想で新しいものを取り入れるカリフォルニア・ルックの気質そのものである。スケートボードは前期カリフォルニア文化の象徴であるキドニー型プールで「泳ぐ」という使い方ではなく、「滑る」という使い方をし、プールに「新しい意味」を与えたのだ。

(モノの新しい使い方を示し、そのモノに新しい意味を付与するという行為は、モノを浪費することで文化を発展させてきた時代が抱えている問題を解決するヒントを持つ、というのはあまりにも大げさだろうか。)

 

スケートボード」という言語

プールに「新しい意味」を与えた「滑る」という行為は、ロンドン大学建築史の教授イアン・ボーデンの言葉を借りれば「与えられた意味を読み替える行為」である。例えばコップは「飲み物を飲むための道具」という意味を持つように、ものにはそれぞれ「与えられた意味」がある。しかし「与えられた意味を読み替える行為」とは、その「意味」を読み替え違う使い方をすることである。たとえば、Wクリップのつまみ部分でコード類をまとめる事も意味を読み替える行為といえる。

 

スケートボードはそもそもの始まりとして、サーフィンの代替物であった。サーフボードの代わりにスケートボードに乗り、波の感覚を求めバンクで滑っていたことを考えれば、波の代用として何かを求めたのは自然な成り行きかもしれない。

 

スケートボードは「意味を読み替える」対象をプールから大きく広げ、都市のすべてを対象とした。都市の中でスケートボードができる場所とそうでない場所を判断したのだが、その判断の基準――というよりも、ほとんどどこででもスケートボードは滑れるという可能性を世に知らしめたのが、マーク・ゴンザレスというスケーターだ。

 

スケーターが対象の領域を広げた都市にはたくさんの建築物があり、それらは設計者によって、誰にでも使い方が理解できるように設計されている。建築物は、誰にでも使い方が理解できる、いわゆる「共通言語」を発話しているのだ。設計者は建築物を設計するとき、どうすれば誰にでも使い方が理解できるか考えると同時に、その建築物が設計者自身も思いもよらない「意外な使われ方」をされることを想定しているし、その「意外な使われ方」が都市を活性化するきっかけになることも知っている。

 

だがスケーターは設計者が建築物に与える共通言語だけでなく、意外な使われ方の想定も無視し、建築物やそれらを含む都市のすべてを「スケートボードという独自の言語で言語化できるか(つまり、そこでスケートボードができるか)」そういう視点で見ている。建築物は「与えられた意味」という誰もが理解できる共通言語を発話しながら、設計者の想定する意外な使われ方を超えた「来たるべき言語のために」――つまりこれから経験するかもしれない「新しい使われ方」を待っている。その「来たるべき言語」は我々スケーターが付与するのだ。先述したカリフォルニア文化を象徴するキドニー型プールでスケートボードをしたことも、与えられた意味である「泳ぐための施設」という共通言語を読み替え、Rを波に読み替えて滑るという誰も想像できなかった「来たるべき言語」を付与したのである。スケートボードの生みの親がサーフィンなら、育ての親はトーマス・ドリバー・チャーチである。トーマス・ドリバー・チャーチが設計したキドニー型プールがスケートボードを育て、このプールでスケートボードは設計者自身も知らなかった新しい言語を獲得したのだ。

 

スケーターが都市の中で自由でいられるのは「与えられた意味」に従うのではなく、自分たちが「意味を与える」側にいるからである。スケートボードという独自の言語で「与えられた意味」を解体、再解釈し、都市に新しい意味の痕跡を残しながら、改めて都市を「自分たちのもの」として手に入れなおすのだ。

 

キドニー型プールで滑るようになったことがすべての始まりであり、エアーでプールから飛び出したスケートボードはその着地場所に都市を選んだ。スケートボードは『エンドレス・サマー』で描かれた「終わらない夏」をプールに見つけたことで自分たちの言語を手に入れたが、自分たちの物語はまだ手にしていなかった。スケートボードは1987年を境に「終わらない夏」に代わる物語として、『アニマル・チン』と呼ばれる自分たちの物語を語り始めた。『アニマル・チン』とはパウエルというスケートボードカンパニーが発売した映像作品で、ボーンズ・ブリゲードと呼ばれるチームのスケーターが伝説の人物アニマル・チン(写真参照)を探しにカリフォルニアへ旅に出る、というスケートボードの世界で初めてロードムービー形式で構成された作品である。

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この『アニマル・チン』をきっかけにスケートボードの主流がR/プールからストリート/都市へ移行したことはサーフィンからの完全なる脱却を意味していた。

 

波の代わりを求めキドニー型プールで滑ったことをきっかけに、「意味を読み替える」という能力を手に入れたスケートボード。それ以降サーフィンの練習用という位置づけから脱却し、都市で滑り始めたことは自分たちの言語で語り始めた証である。

 

スケートボードは「終わらない夏」の延長では語りきれなくなり、都市で滑るようになったことをきっかけに、自分たちの言語で物語を紡ぐ必要が生じたのだ。

 

アニマル・チンを探す旅はまだ世界中で続けられている。

 

 

 

 

 

最後に。

なぜこのような文章を書いたか、ということを書きたいと思う。

 

東京オリンピックスケートボードが種目になることが決定しており、日本でスケートボードが改めて注目を浴びる。「競技」という視点でメディアに取り上げられるということは、ストリートでスケートをしているとき「スケーター(と呼ばれるスポーツマン)が道路で危険行為をしている」と思われ、通報されても仕方のない状況が増える、ということだ。

(この「競技」という側面が必ずスケーターと世間とのズレを生む。サーフィンやスノーボードのように。軋轢を少しでも減らすには、世間から競技という側面で認知される前に、「文化」としての側面を認知させることだと思う。順番は大事だ。)

 

ストリートで滑ることが危険行為とみられてもおかしくないのは、スケーターなら誰もがわかっていると思う。スケートボードのことをよく知らない世間から見れば、スケートボードはスポーツであり、ストリートで滑ることは悪ともいえる部分だ。そうなれば苦情が増えスポットは禁止になるし、パブリックパークは閉鎖になる可能性もある。

 

私はそれらへの対抗手段は、スケートボードが価値あるものであり、文化であることを証明することだと考えた。

 

それには「自分たちだけのスケートボードの歴史」だけでなく、スケートボード以外の文脈から見た、外から見た視点で改めて価値を示さなければならない。